2007年9月7日 法科大学院「英米法総論」試験問題解説

I. バリスタとソリシタとでは伝統的に,養成のされ方の違い,倫理や業務態様の違い,そしてそれぞれの職務独占があった。1990年法や1999年法がバリスタの法廷弁論独占を廃止し,ソリシタなどが参入することを可能としたけれども,それ以外にも,依頼者が直接バリスタに依頼をすることが解禁されるなど,業務形態についても改革が及んでいる。にもかかわらずバリスタとソリシタは別の法曹として養成・規律されている。バリスタとソリシタなど法専門家が自由競争にさらされることが依頼者にとって好ましいという考えが改革を進めてきたし,バリスタとソリシタの両方,さらにはQueen's Counselとjuniorの複数のバリスタを雇わなければならないといった依頼者にとってともすれば不合理とされる伝統的規律が緩和されるのは依頼者にとって都合のいいことともいえよう。しかし養成段階ではバリスタもソリシタも伝統的法律業務を中心に教育されるのであり,それぞれの中心的業務は維持されることとなり,独占の廃止はせいぜい,主たる業務と関連して新規マーケットを開拓することを可能としたというのが現状である。また直接依頼をバリスタが受けられるようになったとしても,バリスタが自ら情報や証拠を収集する能力は期待されておらず,依頼者自身が情報をまとめてバリスタに提示する能力を有しない限り,ソリシタが依頼者とバリスタとを仲立ちする態勢は維持されるであろうし,それによってソリシタの有する専門的情報に基づき依頼者に適したバリスタを選ぶという,伝統的態勢の依頼者保護機能は維持されることとなる。それでもさまざまな改革が,バリスタとソリシタとの二分制の根拠をじわじわと侵食してゆくこともまた,想像に難くない。

II. 連邦裁判官については文字通りの終身制があり,弾劾もサミュエル・チェイス弾劾失敗以来,判決の内容を理由としては正当化できないことが確立しているので,報復への抵抗力は強いといえる。他方,州裁判官の場合,選挙制にせよメリット・プランにせよ,州民の投票は,そもそも裁判官の独立と並んで裁判官の市民に対する責任を重視することを背景にしており,裁判官の保護という点では,州民の意思を理由とする落選ないし不信任が可能であるのみならず,それが民主制上好ましいとまで考えられる。とくにメリット・プランは,選挙制よりも脱政治化,能力による裁判官任用を目指すものであっても,信任投票が対立候補なしになされるため,かえって現職裁判官の判決内容に対する批判キャンペーンが有効ともなりうる。とはいえアメリカにおいて弁護士は頻繁にキャリアを変えるのであって,たしかに裁判官でなくなることは屈辱であるとしても,他の法律業務に転じることにとくに障害もないので,報復への恐怖はさほど大きいものではないとも考えられる。さらにアメリカの裁判官,とりわけ第一審裁判官については,社会において批判のありうる判決を下す場合でも民意を代表する陪審の判断に基づくときには,陪審制の存在が裁判官自身への風当たりへの防壁となってくれる。

III. コモン・ローは制定法によって変更されない限り,裁判所が柔軟に発展させてきたものであり,議会においてもとくに手当てが必要でない限り,裁判所のコモン・ロー形成を黙認する傾向にある。したがって判例変更も,裁判所が時代の変化に従って柔軟に行っている。他方,制定法は通常,民意を代表する議会の意思を示すものとして裁判所は解釈し,一旦なされた解釈が不都合であったとしても,議会がいつでもその不都合を改めるであろうということから,裁判所が制定法解釈の判例変更をすることにはことに慎重である。本件においてシャーマン法が連邦制定法にもかかわらず,それを「コモン・ロー的」とやや形容矛盾ともいえることを犯しているのは,通常の制定法とは異なり,条文自体の抽象度が高く解釈の余地が広く,裁判所が柔軟に解釈をし,必要に応じて解釈の変更を行うことについて議会側でも異存はないはずであろう,ということをいいたいように思われる。とはいえ判例変更に関するコモン・ローと制定法との扱いの違いは,本当に制定法解釈について議会が不満であるならいつでも法律改正で対処できるのかと考えると,ドグマ的に過ぎるようにも思われる。また「コモン・ロー的制定法」なる性格付けも,講義で披露した,プロ野球に対する反トラスト法不適用判例を長年維持して,他のプロスポーツとは異なる取扱いを続けた根拠規定が本件と同じくシャーマン反トラスト法であったことから,どれほどの一貫性があるものか不明である。

IV. 第14修正§1は平等保護やデュー・プロセスを保障しているが,これは州が意図的にその保障を侵害する場合について裁判規範を与えているのみである。同修正§5は§1を実現する立法権限を合衆国議会に付与することで,人権を侵害されたと主張する者が州の侵害の意図を立証する責任を転換し,実質的に人権侵害の効果のみを立証すれば足りるものとすることまでも可能としている。ただ§1が州の行為state actionを要求する文言となっているため,§5の立法権限も,州による人権侵害を規制する立法しか認められないというのがThe Civil Rights Cases(1883)以来の一貫した合衆国最高裁の解釈である。 したがって州の行為を背景としない私人の行為については,たとえば私人が人種差別することであっても,この§5を根拠としては規制できないことになっている。他方,州際通商条項によれば,もともとの合衆国議会の立法権限に含まれ,当然ながら私人を規制対象とする立法も認められている。ロックナ時代にはそれでも「州際通商」の範囲が限定解釈されたため,合衆国議会の立法権限に限界があったが,ニュー・ディール期以降,州際通商に実質的に影響することである限り規制対象にできると解釈が拡大されたため,動機は私人による人種差別ーーたとえばレストランやホテルでの人種差別ーーを禁止することにあるとしても,実質的に州際通商に影響する私人の行為を規制するといえさえすれば,憲法上有効な立法とされるに至る。そのため経済活動であれば実質的に州際通商に影響するといえるので,どのような連邦立法でも州際通商条項を根拠に規制できることとなったが,1990年代以降,それでも学校周辺での銃規制とか,女性に対する暴力といった,州際通商との関連性があまりに希薄な州内の出来事を規制する連邦立法については合衆国最高裁は州際通商条項の範囲外として違憲判断を下している。しかしこの2件はなお例外であり,州際通商条項を根拠に人権保障立法をすることへの制約はなお少ないものといえる。