2005年2月15日法科大学院「英米法総論」試験解説(模範答案ではない)

I. イングランドにはバリスタとソリシタという2系統の弁護士がおり,それぞれ独自の養成,独自の規律をもっている。1990年法まではさらにバリスタとソリシタはそれぞれの業務分野について独占を維持していた。上位裁判所での法廷弁論権についてはバリスタの独占であり,しかも法廷弁論権はバリスタ有資格者のうちでも単独開業の者にしか認められず,したがってCPSなどの政府機関や企業などに雇用されたバリスタ有資格者には法廷弁論権はなかった。しかもバリスタとしての業務には,受任する時間の余地があって正当な報酬の支払われる限り依頼を断ってはならない,というcab rank ruleという倫理規範が課せられていた。1990年法はバリスタの法廷弁論権独占を廃止したが,その際,バリスタとソリシタの二分制を廃止するのでもなく,また直接に個々の弁護士の資格審査制度を設けるのでもなく,専門家団体が策定する当該団体メンバーの研修・資格付与プログラムを大法官が認可する,ということにした。ただその場合でも,バリスタの主張により,依頼者の属性や弁護士報酬の出所を理由に依頼を断ってはならないという修正されたcab rank ruleが設けられた。結果,ソリシタ事務所のソリシタについては早くに上位裁判所での法廷弁論の道が開かれたが,CPSの弁護士については,認可手続に関与する幹部裁判官(バリスタ出身者)の抵抗により,認可申請がことごとく拒絶されることになった。認可賛成論は,CPSの弁護士も能力と倫理があれば法廷弁論を認めるべきであるというのであったが,反対論は政府や企業に雇用された弁護士は,多様な依頼者の依頼に応じるバリスタ(イングランドのバリスタは,専門分野はあっても,原告や被告に特化した専門分化はない)とは異なり,依頼者が固定化しており,本質的に偏った思考に陥る,というのであった。1999年法はバリスタの抵抗を排除すべく,立法によって,雇用されていることだけを理由に法廷弁論権を認めないことはできないものとした。これによりCPSの弁護士への法廷弁論権付与の大きな障害は取り除かれた。ただ,バリスタへの譲歩として,1999年法でも,法廷弁論の場で依頼者に対する義務と弁護士としての義務とが対立した場合には後者が優先するものと明文化した。

II. 判決文は当該事件の結論の理由を示すとともに,後の事件での先例となる機能がある。しかし後者の機能を果たすのは,厳密にはratio decidendiだけであるとされる。その意味は,ratio decidendi以外には後の裁判所は拘束されないし,弁護士も判例として援用することはできない,そして判例となれば,変更も不可能でないとしても,それには相当の理由が必要となる,ということである。しかし裏を返せば,それ以外の機能はratio decidendiではない傍論にもありうる,ということになる。もともと何がratio decidendiであるかは,後の裁判所が判断することであり,当該判決を書いている裁判官が決めることではないので,一貫した論旨のために述べていたことでも結果的に傍論となってしまうこともありうる。意識的に傍論を裁判官が書く場合であっても,厳密には判例ではなくとも下級審や弁護士に,将来起こるであろう未解決の問題に対する手がかりを与えるという法的安定の効用はある。それは傍論が,準則ではなくより一般的な原則を提示する場合であっても,仮説事例に対する準則を提示する場合であってもありうることである。しかしそれにもかかわらず傍論を判例とはできないのは,判例として拘束する範囲を過度に広げることは判例の発展において阻害要因となりかねないからである。判例は具体的事件での妥当性を確認してこそ拘束力をもつべきなのであり,抽象度を高めた判例が広く拘束することになると具体的妥当性が損なわれる,という考え方があるのである。

III. 陪審コンサルタントとは,(1)陪審研究を応用した,一般的な情報収集と当該事件に特化した調査実験を行って,とくに(2)陪審員候補者の選任と(3)陪審員に対するトライアルでのプレゼンテイションを有効にしようとするビジネスである。イングランドとアメリカとの違いは,この3点すべてにある。イングランドでは現在では民事陪審が例外化されて,刑事陪審しかほとんどなくなったのに加え,陪審の評議の秘密を裁判所侮辱の制裁によって担保するということが立法化すらされている。そのため陪審研究も実際の陪審を用いる手法に大きな制約が課され,ビジネスに応用する誘因に乏しい。それに対してアメリカでは,実際の陪審を用いる陪審研究がほとんど無制約に可能となっており,模擬陪審や世論調査の手法を加味した情報の集約化が容易な状況にある。トライアル手続もイングランドに比べアメリカでは,当事者対抗的性格が強調され,とくに州裁判所では陪審員候補者選任手続も裁判官主導ではなく弁護士・検察官が念入りに行うことができる。そのためどのような陪審員が依頼者にとって好ましいかを厳密に選別する情報を提供するコンサルタントの活動が意味をもつ。イングランドではことに,理由なしの忌避も廃止されたので,コンサルタントの活躍の余地は無い。さらにトライアルでのプレゼンテイションにしても,アメリカでは裁判官の介入が少なく,弁護士や検察官の力量が試され,そのためコンサルタントの支援を受ける意味も高いのであるが,イングランドでは証拠に対する説示でのコメントを裁判官に広く認めており(この点は講義ではあまり触れていなかったかもしれませんので,答案で書かなかったとしても気にすることはありません),コンサルタントの腕の見せ所が損なわれている。陪審を操作するビジネスとして一見いかがわしい陪審コンサルタントであるが,コンサルタントなしでも弁護士は経験と勘によって陪審員を選別しているのであり,むしろ人種などといったいわれなきステレオタイプが介入しやすい「勘」よりも,「いわれがなくもない」実験結果の方が害は少ないのかもしれない。プレゼンテイションにしても,陪審員に依頼者の主張をわかりやすく提示するというのはむしろよいことではないのか,という議論もありうる。ただしコンサルタントが悪意で,あえて陪審を混乱させ,hung juryを引き起こすという戦術をとることもありうる。それにしても陪審コンサルタントは実際には金持ちしか利用できないサーヴィスなので,貧乏人に不当なハンディキャップを与えるということは可能である。しかしもともと弁護士を選ぶ段階で金持ちは貧乏人よりも有利なのであって,コンサルタントがそれに加わるまでもなくハンディキャップは大きいともいえるし,金持ちといえども,勝ち目の高い事件であえて高額のコンサルタントを依頼する必要はないので,そのような弊害はそれほど大きくないのかもしれない。

IV. 合衆国憲法の第5修正の二重の危険は第14修正のデュー・プロセス条項に組み込まれて州に対しても適用がある。にも関わらず本問事件でその適用がないとされるのは,刑事事件に関してはアラバマ州とジョージア州とでは別の主権であるからである。合衆国憲法第3編上,連邦裁判所も刑事管轄権については連邦法に関する事件しか取り扱えないものと考えられる。一般的にも連邦裁判所であれ州裁判所であれ,刑事実体法については当該法域の裁判所に専属管轄があるものとされており,それは合衆国憲法上の明文はなくとも,憲法上のものといえるかもしれない。これは抵触法ないし州際私法のルールにより他法域の法も裁判所が適用できる民事事件とは顕著な違いである。しかし単に専属管轄であるからという手続上の理由だけで合衆国憲法上の権利である二重の危険の保護がはずれるというのもおかしな話である。とくに同一の犯罪であったり保護法益が共通であるというのであれば,どこかの(専属管轄のある)裁判所で1回裁かれれば十分というのも,論理一貫している。結局のところ,本問の法理は合衆国憲法の二重主権原理にまで遡らないと説明できないのかもしれない。すなわちもともと刑事管轄権に関する主権を有していたstateが合衆国憲法批准によりその主権の一部を連邦に委譲したのであるが,刑事管轄権については特殊な事件についてのみ委譲しただけで,一般的な刑事事件についてはなお州に主権が留保されているのである。連邦裁判所の刑事管轄権と州裁判所の刑事管轄権とではなお,保護法益が異なるから相互に二重の危険が及ばない,という機能的な説明も可能であるけれども,本問事例のように州裁判所と別の州裁判所との間で同一事件について重複起訴がなされる場合,しばしば保護法益も共通なのであり,機能的説明では足りず,各州は合衆国憲法上も異なる主権だから,という観念論にまで依拠せざるをえない。